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障害者差別の解消やインクルージョン実現に必要な『ニューロダイバーシティ』という考え方

ご覧いただきありがとうございます、うこうこです。

みなさん、『ダイバーシティ』ということばを聞いたことがありますか?

英語でdiversity、日本語訳では“多様性”といいます。

多様性とは、集団の中にいろいろな特徴や特性を持つ人が存在することを意味しています。

最近になり、

「多様性を尊重する社会を作ろう!」

と言われたりしますが、人種、性別、年齢、障がいの有無、性的嗜好、価値観、働き方などの違いがあって当然だからお互いに尊重しあえる社会を作る、という意味になります。

このダイバーシティですが、障がいのある人への理解の中でも使われるようになってきています。

それが“ニューロダイバーシティ”という考え方です。

そして、おそらく今後、この考え方は議論を重ねながら認識は広がっていくと思いますし、障がい者への差別の解消やインクルーシブな社会の実現には欠かせない非常に重要な考え方でもありますので、なるべくわかりやすくまとめてみたいと思います。

ニューロダイバーシティとは?

ニューロダイバーシティとは、

neuro(脳・神経)diversity(多様性)を合わせたことばです。

その意味は、

  • 障がいのあるなしに関わらず全ての人は、脳や神経のあり方に個別的な違いが存在しています。
  • 同じように情報を知覚し処理しているのではなく、人それぞれです。
  • そのような違いを多様性と捉える認識を持ち、互いに尊重しあえる社会を作っていこうとする考え方です。

『障がいの有無に関わらず、全ての人の脳や神経はみんな違いがある』といっても、障がいを否定しているわけではありません。

多数派と比べてその違いが大きくなると、社会生活では不都合が生じてきます。現代の社会は多数派が効率よく生活しやすいように作られているため、違いが大きい少数派の人ほど支障が出てくるのは当然です。その支障の大きさが「障がい」になるのです。

つまり、障がいのある人は何かが劣っているとか異常であるということではありません。

全ての人にある脳や神経の違いが大きいだけでそれ自体が障がいではありません。

人の中に障がいがあるのではなく、社会との間に障がいがあるのです。

このような考え方は以前よりありましたが、脳や神経学的な知見や認識の積み重ねと共に、ニューロダイバーシティという考え方として広まってきています。

うこうこ
うこうこ
このニューロダイバーシティという言葉は、自閉症スペクトラム(ASD)の当事者の活動から生まれてきたことばで、当初はASDの人たちを理解するためのことばとして使われていました。しかし、最近では、発達障がいや遺伝性疾患などの人たちだけでなく、すべての人の脳や神経のあり方を対象にした考え方との認識が生まれています。

差別やインクルーシブの実現が進まない背景にあるもの

ニューロダイバーシティという考え方は、今の社会が抱える障がい者差別の解消やインクルーシブの実現にも大きく役立つと考えられます。

差別の解消やインクルーシブがなかなか進まない背景には、『多数派が違いを認められない』風潮が根強くあるからだと思います。

日本は、「輪を乱すもの」や「出る杭」は良くないものとされ、”みんなと同じように”が重視される社会です。多数派が作り出す平均化されたものが重視され、それが正しいものとして認識されています。そのため、そこから外れてしまう「違い」を、異質・異常なもの、劣っているものとして認識する傾向が強い社会になっています。

しかし、多数派もみんな「違っている」のです。

同じように情報を認識し、考え、行動しているかのように見えるのは社会の構造がそうさせているだけで、本来的には全ての人が脳や神経レベルで「違っている」のです。

日本社会で根強い正常・異常、優・劣といった区別する認識を変えていくために、ニューロダイバーシティの考え方は差別解消やインクルーシブで主張される「違いを認める」ための土台になりうる考え方であると思います。

「違いがあるのは同じ」でも配慮や支援は必要

ニューロダイバーシティの考え方に対して、このように主張する人もいるかもしれません。

「みんな同じ違いであるならば、障がい者への支援とか特別扱いはしなくていいってことでしょ!?」

しかし、それは違います。

僕たちが生活している社会は多数派によって効率が良いように作られています。

違いが大きい人たちにとって、その社会では生きていく上では様々な支障が出てきます。

みんな違いはあってもその領域や程度は人それぞれです。そして社会の構造は多数よりになるのは避けられません。違いの大きさと社会適応の度合いによっては、配慮や支援が必要な人は存在します。

そのような人たちが「障がいがある」とされる人です。

最初から、個人で「障がいがある」のではないのです。

まとめ

ニューロダイバーシティということばは、国の政策の中でも使われることが増えてきました。おそらく、これから見聞きする機会は増えていくだろうと思われます。

だからこそ、ニューロダイバーシティという考え方もそうですが、「障がいがあるということはどういうことなのか?」ついて、改めて考え議論していく必要があるのではないかと思います。

「違いの大きさ」は「人と比べてできない」ことかもしれません。

でも、「できない」ことが「不都合である」「迷惑をかける」「生きづらい」「いけないこと」なのでしょうか?

障がいのある人は他者に合わせて行動することが「できない」ことは多いかもしれません。でも、障がいのない人が障がいのある人を差別することは、違いに共感「できない」と言えるのではないでしょうか?それは同じ「できない」ではないのでしょうか?

「できない」ことは領域や程度の違いはあるけれども、みんな誰にもあることではないでしょうか?

多数派の作り上げてきた社会の認識や構造について、そして、障がいとは何なのかについて、ニューローダイバーシティという視点に立って今一度考え直す必要性があるのではないかと思います。

 

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