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社会の理解が進んでいるとはいえ、障がいのある人への偏見や差別的な対応がされているという話題が尽きることはありません。
どうして人は障がいのある人に偏見をもったり差別をしたりするのか?
障がいのある子をもつ親として、障がいのある子や家族を支援する支援者として、ずっと疑問を持っていました。
しかし、最近になり、“とある考え方”を知り、障がいのある人への差別や偏見を広い視点で考えていくことが必要であると考えるようになりました。
今回はそのきっかけとなった“とある考え方”について紹介したいと思います。
障がいのある人を差別する人には○○○が欠けている
障がいのある人への偏見や差別を目の当たりにすると、障がいのある子を育てている親の立場としては『何ともいえない気持ち』になります。
悲しいとかつらい気持ちを感じるのはもちろんですが、「一般的な人からすればそういう感覚になるんだろうな」と偏見や差別をする人の考えや気持ちも分からなくはないんですよね。複雑で行き場のない感情を感じます。
そのように、障がいのある子をもつ僕たち親やその家族は、多数派の人(偏見や差別をする人たちも含め)に対して共感を向けてなんとか折り合いをつけていこうとしています。
そのような共感性を示すことは、障がいのある人にとっては難しいことが多いです。ダウン症や、特定の精神の障がいのある人などのように共感性が高い人たちもいますが、多くの障がいのある人は他者に共感性を示すことが難しいことが多いです。
だからこそ、障がいのある人の親や家族は多数派の一般的な人に気を遣います。どのような気の遣い方をすれば良いのかを考えます。「多くの人だったらこう考える、こう感じるだろうな」と共感性を用いて、相手の立場に立ち考えたり感じようとしたりすることで、多数派の人への気遣いの仕方を探り、実行していきます。
では、多数派の一般的な人たちはどうなのでしょうか?
障がいのある人に共感しようと考えてくれる方もいます。
障がいのある人に共感をしようとしても難しいこともありますが、そのようなときには、「あの人のような障がいのある人を近くで支える家族はどんな思いなのだろうか?自分だったら…」と周囲の人に共感をしようとすることで、間接的に障がいのある人への共感を示そうとします。
逆に、「障がいのある人は○○だ」との偏見をもったり、差別をする人たちもいます。そのような人の多くの認識は、多数派の視点を正当化していたり、押し付けるものが多く、障がいのある人という自分とは異質な少数派の人たちに対して、共感に欠けるものが多いと思います。
つまり、障がいのあるなしに関わらず多くの人は自分とは異なる少数派の人たちに対して共感を示すことができますが、障がいのある人に極端な偏見をもっていたり、差別したり、排除したりしようとする人は、自分とは異なる少数派に共感を示すことに困難さがあると考えることができます。
二重共感(ダブルエンパシー)問題という視点が教えてくれる多様性の重要さ
多数派の中の共感に欠ける人たちも問題の一部であるという認識は、ニューロダイバーシティという考え方が広まるなか、二重共感(ダブルエンパシー)問題として指摘されるようになってきました。
ニューロダイバーシティについてお解説はコチラ↓障がいのある人への社会のあり方やインクルーシブなどを考えるあたって重要な考え方です。
ダブルエンパシー問題とは、複数の人が参加する対人場面で生じる相互理解の困難は、特定の個人やグループに存在するのではなく、両方の人々の問題であるとみなす立場である。
そだちの科学 41 日本評論社 p105より引用
障がいのある人とそうでない人との間の交流(理解)に問題があるなら、それは障がいのある人の方にだけ問題があるのではなく、両者に問題があると考えます。
障がいのある人は、能力的または特性により共感性に乏しいことがあり、多数派の人に共感し、合わせた対応や行動をとることが難しい。
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障がいのない人の中で、障がいのある人への交流(理解)に困難がある(偏見や差別をする)人は、多数派の中でも共感性に乏しいために、少数派の人に共感し、合わせた対応や行動をとることが難しい。
というように整理できます。
つまり、障がいのある・なしとか、多数派・少数派といった枠組みに関わらず、全ての人において“共感性をどの程度もっているのか?”というひとつの課題に整理することができるのです。
突き詰めれば、少数派の人へ共感をどの程度示せるかということにつながります。そのひとつの問題が障がいのある人への偏見や差別の問題だと考えることができるのです。
多様性を尊重する社会においては、多数派の人が共感する力が重視されるようになります。そして、その共感する力も多数派の人たちの中でも様々であること、障がいのある人を差別する人たちの課題は共感する力に欠けているという視点で見ることができます。そのような視点で見ていくことが、今後、多様性を尊重する社会ではより明確に求められていくのではないかと思います。
共感できない人への共感も必要
ひとつ注意しておかないといけないのは、偏見や差別まではしないけど共感はできないというタイプの人もいるということです。
例えば、障がいのあるきょうだいがいて、小さい頃から自分を犠牲にして面倒を見させられてきた人、学校で障がいのある子(昔は”障がい”と理解されていなかったことも多いです)のお世話役のように扱われてきた人など、障がいのある人に差別したり排除したりはしないけど、障がいのある人と関わりたくないと思うかもしれません。
そういう人たちは少なくないと思います。
多様性という理解の中では、そういう人たちの考えや思いに共感をしていくことは必要です。共感が難しい人にも色々な背景があり、多様性があることを忘れてはいけないと思います。
まとめ
障がいのある人への偏見や差別を考えていく時、障がいのある人とない人でのそれぞれの立場に立っての議論が展開されることが多いです。
そうなると「こういう人もいるじゃないか?危ない」「いやいや、こういう人もいるんです」と個別事例の出し合いみたいになってしまい議論は平行線のまま進まないという場面を何度見たことか…
そのため、共感性の問題として多様性の観点から考えていく視点も必要ではないでしょうか?
多様性を認めあう社会という観点に立つことで、障がいのある少数派の人たちが形成する文化や社会に対してどのような共感が必要なのか?を考えていけるのではなでしょうか?
それが障がいのある人への偏見や差別を解消していくひとつの道筋であると思うのです。
皆さんは、どう感じ、どう考えますか?